hydrangea --riri blog--

1992年生まれ。職業は看護師。

「推し活疲れ」って知ってますか?〜ADHDとうつ病と推し活〜

私はADHDですが、看護師をしています。

ADHDには、過集中や好奇心旺盛であるという特性があります。

興味を持ったことに夢中になりすぎて、周りのことには注意が向かなくなります。「熱しやすく冷めやすい」とよく言いますが、まさにそれです。

看護師として働くにはそういった特性が障壁となることもかなり多いのですが…ADHDと看護師の仕事についての話はまた別の機会に。

 


今回は私の #推し活 #オタ活 についてです。

あるK-POPアイドルを好きになったことがきっかけで、いくつかのグループを何年も応援しています。

私は数ヶ月前にうつ病と診断され、休職中です。体調にはかなり波がありますが、時間だけはたくさんあるので、 体調の良い時にTwitterで「推し活専用アカウント」を作りました。

同じグループを推している人たちとリプライ(会話)をし合って盛り上がっています。推しがテレビに出演すればその話題で盛り上がり、曲が発売されればハッシュタグを付けてツイートし、トレンド入りを目指す。ファンも推しが少しでも有名になれるようにと努力するのです。

新曲のミュージックビデオが公開されれば公開の瞬間を待ち構え、公開と同時に再生。もちろんSNSでの拡散も欠かさない。

イベントのチケットなどの抽選、先行予約には必ず参加するし、YouTubeに動画がアップロードされればお気に入りの場面を切り取ってTwitterに載せる。

CD1枚につき1枚応募券が入っていて、ほぼ同じ曲が入ったCDを初回限定盤A、B、通常盤の3形態セットで何組も購入する。

ほぼ24時間体制でグループ活動とともに過ごし、かなりのお金を使ってきました。

もちろん、休職する前は、夜勤もありましたし、リアルタイムでグループ活動を追うことはなかなか出来ませんでした。

休みの日であっても、疲れて寝ていてテレビ番組やライブ配信を観られなかったり、イベントの予約を忘れていたり…「仕事がなければちゃんと追えていたのに…」と思うこともしばしば。

CDは当たり前のように1枚しか買わない。むしろ、音楽配信サービスで聴けるからCDは買わない。それが普通でした。

SNSに張り付いて、お金を使い、本格的に推し活をするようになり数ヶ月。ようやく私は気づくことができたんです。


「推しにはパワーを貰いっぱなしだけど、
『推し活疲れ』もまた然り。」

 

これには私の場合、SNS疲れという意味もありますね。

うつ病の治療中であるという意味では、好きなことをして過ごすのは良いことです。しかし、ADHDは物事とのほどよい距離感が取れません。ADHDの特徴である「過集中」により、自分が疲れ切るところまでのめり込んでしまう。お金も時間も使うことが下手なので、際限なく使ってしまう。そしてある日突然プツンと糸が切れたように燃え尽きる。

今思えば、こんな風にして今までいくつもの物事に衝動的に手を付けて、ハマってはのめり込んで飽き、ハマっては飽き、を繰り返してきました。ADHDを自覚するずっと前からです。


人の数だけ推し方がある。


と私は思います。今の私のように何かにのめり込んでいても、その人が幸せならそれでいいんです。SNSに張り付いたり、CDを何十枚と買ったりしても、そのせいで普段の生活で節制が必要でも、自分が幸せならそれでいい。

でもやっと気づくことが出来た。私は、私に合った推し活との距離を見つけなければいけないということに。

コロナウイルスの感染がきっかけでうつ病になってしまったため、職場からは傷病手当と、労災認定を受けて、給料の何割かをもらって療養しています。今までは夜勤手当もあり、それなりに自由に使える程度のお給料をいただくことができていたけれど、今は違う。

もし、これから何ヶ月も復帰できなかったら?うつ病が治っても、後遺症が続いて仕事できなくなったら?夫の給料で生活はできるかもしれないけど、奨学金はどうやって返済する?ローンは??

とても「好きなことをする」という名目で、推し活に散財している場合ではない…

普通の人が当たり前に考えられることが、ADHDには当たり前ではなく、過集中したのちにぷつりと集中力が切れた時、初めて自分の置かれた状況に気がついたりする。

それを私は今までの人生で何度繰り返してきたんだろう…と悲しくなります。(私は調子が悪くなると買い物依存気味になることもあります…)

 


皆さんには当たり前かもしれないけど、推し活においての自分との約束を決めました。

 


「ファンであるからには○○しなきゃいけない、という思い込みは捨てる!!」

 


家に同じCDが何枚もあってどうするの?中古で売ってもいくらにもならない。曲が聴ければそれで良い。今買おうとしているそのグッズは、5年後も大事に取っておきたいと思えるほど欲しいもの?Twitter上の、本名も知らない友達がそんなに大事?返事は返さなくたっていい。Twitterのトレンドが自分の人生に何の意味がある?テレビ出演は録画で観ればいい。リアタイしなくてもいい。観なくたっていい。


そう自分に問いながら、自分のライフスタイルに合った距離感でゆるりと推し活をしていこうと思います。


推し活ちょっと疲れたな…とか、お金使いすぎかな…って思ったことがある人、一度自分と推し活との距離について考えてみてはいかがでしょうか。


人には人の推し活!!それに尽きます。

 


#ADHD
#大人の発達障害
 

 

いじめられていた中学時代の思い出

皆さんには、いじめられた経験やいじめた経験があるだろうか。

 

約27年間生きてきて、人間関係で一番悩んだのは中学生の時だ。中学の吹奏楽部で、私はいじめられていた。いじめの主犯格だったA子は、いわゆる「サバサバ系女子」で、「私好き嫌いハッキリしてるからごめんね」と周囲によく言っていた。

 中学生というのは多感で複雑な時期で、さらに吹奏楽部というのは女子生徒が多いので、人間関係がドロドロしていたものだ。

 

自分で言うのも変な話だが、中学生の頃の私は「THE 優等生」。成績は常に学年で1位2位を争っていたし、先生にも従順で真面目な生徒だった。2年生になると、生徒会選挙に当選し、生徒会の役員にもなった。生徒会の仕事が忙しい時期は、部活に遅れることや、行けないこともあった。それがきっかけだったか、A子たちに陰口を言われるようになった。「生徒会だからって調子に乗ってる」とわざと聞こえるように言われた。仲良しだと思っていた友達に、当時好きだった男の子の話をしたら、次の日には部活のメンバーにその話が広まっていた。部室の私の席に「○○(好きだった男の子の名前)はあなたのことなんか好きじゃないってよ」と書かれた手紙が置かれていた。部活の他の同級生たちからも無視されるようになった。同じ楽器のメンバーで、唯一優しくしてくれていた子がいたが、その子がおどおどと他の子の目を気にしながら私と会話してくれているのが、本当に居た堪れなかった。部活で孤立しているという噂は吹奏楽部以外のクラスメイトにも広まっていた。「〇〇(私)は吹奏楽部でいじめられているらしい」と。そうなると、他の関係ない子たちもヌルッといじめに加担してくるのが中学生。ついに部活以外の時間さえも苦痛となってしまった。地獄だった。

 

孤立した私は、度々部活を休むようになった。体調不良を理由に部活を休んだ。でも、親に心配をかけたくなかったから、授業の後まっすぐ家には帰れなかった。自転車で川沿いをぼんやり歩いたり、公園で勉強したりして時間を潰した。部活が終わる時間になると、ウォークマンGLAYの「軌跡の果て」を聴いてぽろぽろ涙を流しながら、家路に着いた。家では努めていつも通りに振舞った。

 

先生から親に話が行くのも嫌だったし、部活のズル休みも長くは続けられなかった。でも、自分ではどうしようも出来なくなった私は、生徒会の顧問の先生に初めて相談した。親には言わないでくれ、と頼んだ。先生は放課後、私とA子を呼び出し、二人で話をさせた。

 

私はA子に「仲間外れにされ、無視され、居場所がなくなってつらかった。何か嫌な思いをさせてしまったことが原因なら、それを直接私に言ってほしい」と話した。A子は言った。「〇〇が生徒会に入ってから調子に乗っていると思った。私だけではない、みんなが言っていた。特に何かされたわけではない」と。A子の言い分を聞いて私は愕然とした。彼女は終始「みんなが言っている」と主張していたのだ。この期に及んで、その主張の仕方は卑怯だ。正々堂々と自分の言葉で話をしろ。そう思った。結局先生が間に入ってくれて、私に謝罪し、今後嫌がらせはしないと約束してくれた。

 

その日は泣き腫らした顔で帰宅したため、さすがに母から事情を聞かれてしまった。母に知られるのは本当に嫌だった。大泣きで、今まであったことを話した。妹もいるのに、自分が嫌がらせを受けていた話をするのは情けなかった。まだ小学生だった妹に「〇〇(私)ちゃん、いじめられてるの?」と無邪気に聞かれて、胸が鈍く痛んだのを今でも覚えている。

 

A子と表面上の仲直りは出来たが、元のように笑顔で過ごせる日々は訪れなかった。目立たないように、苛立たせないように、周りに合わせて愛想笑いする日々だった。A子以外は、徐々に私と話してくれるようになった。

 

しかし、いじめはなくならなかった。今度は、私に嫌がらせしていた5~6人のメンバーのうちの一人、B子が孤立し始めたのだ。やはり主犯格はA子だった。私がされたのと同じように、B子は無視され、陰口を叩かれていた。居場所を奪われたその子も、私のように部活を休みがちになった。その時少しだけ、「ざまあみろ」という気持ちになった。「あの時私のことも無視したよね?」と思った。でも、それ以上に、いじめがなくならないことが気味悪かった。異常だと思った。

 

何がきっかけだったのかは分からない。ささいなきっかけだったのだろう。いや、きっかけなんてなかったかもしれない。ここまでくると、対象は誰でもいいのではないか。A子軍団は、誰かしらをみんなで批判したりすることで団結しているように見えた。A子は、ちょっと前までいじめの対象だったはずの私に言ってきた。「B子のこと、無視しようよ」と。私は自分がいじめられたときから、あまり友達と群れなくなっていたし、何かが吹っ切れていた。私は新たにいじめられ始めたその子を、ちょっと前まで私のことをいじめていた相手ではあるが、助けたいと思った。とにかくB子を一人にせず、毎日話しかけた。帰りも一緒に帰ろうと誘った。部活の昼休みは一緒にお弁当を食べた。B子は、ある日私の前で泣いて謝った。「○○(私)ちゃんがこんな思いしてたなんて知らなかった。今までごめんなさい」と。

 

その後の詳しい経緯は覚えていないのだが、卒業までにはいじめはなくなっていたと思う。だが、A子と最後まで分かり合えることはなかった。違う高校に進学したA子と、高校の時にレンタルビデオ屋でばったり遭遇した。「久しぶり」と話しかけようと顔を見たら、全力で嫌な顔をして逃げられた。あの時のこと、どう思ってる?なぜ、私やB子が傷付かなきゃいけなかったの?いじめをした経験が、今の人生の役に立ってる?そう聞いてみたかった。

 

 

実は3年前にこれを書いていたようで、久しぶりにはてなブログを開いたら、この文章が下書きにしまってあった。今私は30歳となった。結婚もした。成人式の後の同窓会でチラッと顔を合わせて以来A子とは会っていない。A子も結婚したのだろうか。30歳だし、もう子どももいるかもしれない。愛する子どもに、どんな顔で「人の嫌なことはしちゃいけないよ」としつけるのだろうか。中学時代のことなんてさっぱり忘れて幸せに暮らしているかもしれないが、私の心の中の「中学時代」のフォルダは黒いインクで雑に塗りつぶされたままだ。

 

#いじめ #中学時代 

おうち時間で始めたこと

家で過ごす時間が増えて、わたしが始めたこと。

 

1.筋トレとストレッチをする

 

これはもう1ヶ月以上続けられてる。

夜勤もあるのでできない日もあるけど、1日や2日できない日があったとしても、続けることが大事。ストレッチは2日空いてしまうと体が硬くなっているのが分かる。

最初はYouTubeで筋トレとストレッチの動画を「夜メニュー」としてプレイリストにして、動画を見ながら全部で30分〜1時間かけてやっていた。

どうしても眠い日や時間がない日は、内容をかいつまんで10分や20分で終了。

できれば1時間かけてじっくりやるのがベストだけど、完璧を目指すより継続することを目標としたい。

 

2.英会話の勉強

 

私には密かな夢がある。海外旅行をすることと、あわよくば将来海外に住むこと。実は海外旅行もまだしたことがないのだけど、一回きりの人生、やってみたいことは何でも実現していきたい。

 

小さい頃から公文式の教室に通って英語の勉強をしていて、小学生の時に英検二級を取った。英語が大好きだったが、日本の「受験のための英語教育」が大変に退屈で、高校英語で英語への情熱は消失してしまった。

それ以来、大学でもまともに英語の勉強はせず、自慢だった英語能力はすっかり衰え切った…

それからずっと、「英語をまた勉強して話せるようになりたい」と思ってはいたものの、なかなか取り掛かれずにいた。

 

しかし、このおうち時間をチャンスに、また勉強を始める覚悟を決めた!スピークバディという英会話アプリを試してみたら結構楽しくて、続けられている。恥ずかしいけれど中学1年の文法から勉強し直している。

 

今度こそは話せるようになるまで絶対に諦めない!

 

祖父母の死

突然だが、皆さんには、人生を変えた「別れ」を経験したことがあるだろうか。大好きだった祖父母の死は、今のわたしに大きな影響を与えている。

 

私は大のおばあちゃん、おじいちゃんっ子だった。小さい頃は一緒に住んでいたし、祖父母が家を建てて別居となってからも、お泊まりに行くのが人生の楽しみだった。

 

祖母は歌が上手で朗らかで、綺麗で、物事をハッキリ言う、カッコいい女性だった。「おばあちゃん」と呼ばれるのを「ばばくさくて嫌」といい、「あーちゃん」と呼んでいた。

 

祖父母はしょっちゅう喧嘩していたが、毎晩缶ビール1本で晩酌していた。喧嘩するほど仲が良い、という言葉は二人のためにある言葉だと幼いながらに思っていた。

 

祖父は糖尿病もあり、何種類もの薬を飲んでいた。祖父が体調を崩して入院するたび、祖母は懸命に看病した。私が高校生のとき、祖母が倒れたのも、祖父が体調を崩した後だったと思う。お見舞いに行き、久しぶりに祖母と会った。明朗快活でお茶目な祖母の姿はそこになく、弱々しい話し振りで、食事もあまり食べられていなかった。祖母の好きな甘納豆を差し入れたが、「美味しい」「もうたくさんだわ」と言って一粒だけしか食べなかった。ショックで泣いてしまった。そして、それが大好きだった祖母との最後の面会となってしまった。

 

あれは土曜だったか日曜だったか、昼頃まで呑気に寝ていた私を、母が血相を変えて起こしにきた。「あーちゃんが亡くなったって!病院行くから準備しな!」祖母が亡くなった。奇しくも妹の誕生日であった。

 

何が起きたのか分からないまま、母の運転で病院に向かった。大部屋にいたはずの祖母は一人きりの部屋に移されており、顔には白い布がかけられていた。あれだけいつも綺麗にしていた祖母は、今や伸びきった白髪頭で、痩せ細り、口も半分開いたまま眠っていた。別人だった。

 

死因は肺炎と聞かされた。祖父の介護で負担がかかっていたところで体調を崩し、免疫力が低下して肺炎になってしまったのだろうと、今では想像できる。しかし当時高校生の私には、突然肺炎になるのかも分からなかったし、入院するまであんなに元気だったのに何故?という気持ち、そして、こんなに大好きな祖母のために、「私は何にも出来なかった」という気持ちでいっぱいだった。

 

祖母の死は、祖父にも大きなショックを与えた。祖父は、隣県の広い一軒家で一人になってしまった。祖父は家の中で転倒して、頭部を数針縫う怪我をしたり、相変わらず何とか生きていた。車の運転ももう辞めていた。祖父宅は、隣県とはいえ私の家から車で30分程度だったので、母と父が交代で1〜2週間に1回、食料品を買って差し入れた。私や妹が一緒に行くと祖父はとても嬉しそうだった。足が悪く、転ぶ危険性が高いため、一人ではお風呂にも入れなくなっていた祖父。私は祖父の体を濡らしたタオルで拭き、垢を落とした。足の爪を切り、髪をドライシャンプーで洗った。祖母には何もしてあげられなかった、という気持ちが強かったため、何かしてあげたいと思った。

 

私は大学生になり、実家を離れて一人暮らしを始めた。80代後半になった祖父のところには、なかなか行けなくなってしまった。かわりに、高校生だった妹が、母や父と一緒に祖父宅を週1回訪れてくれていた。

 

その日も、父と妹が祖父宅へ行く約束をしていた。父と妹が食料品を買い込んで、祖父を訪ねた。インターホンで祖父を呼んでも返答がない。さらに家の鍵が開いている。不審に思った二人は急いで中へ入る。玄関を入ってすぐにある寝室で、祖父は首を吊っていた。

 

若い頃は物理の教師。絵画の才能もあった。のちに電器店を営んだ。器用で物づくりが得意で、家の車庫、庭の池、うさぎ小屋なども自分で作っていた祖父。ロープを天井にうまく吊り下げたようだ。父と妹で祖父の体を下ろした。室内が荒らされた形跡はなく、遺書も見つかった。自殺だ。

 

遺書には、それぞれの家族へ言葉が向けられていた。私には『○○ちゃんへ 成人式を見届けてあげられなくてごめんね。大好きだよ。』という言葉が遺されていた。

 

祖父の遺体とは葬儀屋の一室で対面した。首にはロープの痕が痛々しかったが、安らかな顔をしていたのが、私にとってはせめてもの救いとなった。これで祖父は苦しみから解放されたのだろうか。しばらく祖父に会いにいってあげられていなかった自分を責めた。せめてもっと電話してあげていたら?自分は孫として、祖父の生きる希望にはなれなかったのだろうか。祖母との死別も大きかったと思う。

 

大学で看護学を学び始めた私は、《老年期には4つの喪失体験があるとされている》と学んだばかりだった。心身の健康の喪失、家族や社会とのつながりの喪失、経済的自立の喪失、生きる目的の喪失。祖父の死には、その全てが少なからずあったと思う。一人ではお風呂にも入れない。広い家で一人ぼっち。何のために生きているのか分からない。もし自分がそうなったと考えると、その喪失感と無力感、孤独感ははかり知れない。もっとそばにいてあげたかった。さみしい思いをさせてごめんね。それなのに、最期にちゃんとお手紙も書いてくれて、ありがとう。

 

そんな祖父母の死を経験した私は、今、看護師になり、人の生と死と向き合う仕事をしている。今考えれば、祖父に対しては、介護認定を受けて訪問介護や訪問入浴、デイサービスが利用出来ていたら、何か変わったのかなと思ったりする。人の老年期には、若者の私たちが想像もつかないほどの喪失がある。特に人との繋がりは非常に大切だ。社会から取り残さないこと、孤独にしないこと。まわりが手を差し伸べてあげること。超高齢社会に生きる人間の課題だ。

 

私は自殺を肯定するわけでは、決してない。しかし、「これ以上苦しみたくない」と、自ら人生を終わりにする決断をした祖父のことを、私は孫として受け入れてあげたい。

 

もう、家族の誰をも一人にはしないからね。

医療現場の実情

私の病院には感染症の病床がないため、県内のコロナウイルス患者が次々と運ばれてくる、という状況ではないのですが、コロナウイルスの流行による様々な影響が出てきています。

 

医療従事者以外の皆さんは、病院内部の状況を知る機会があまり無いと思いますので、とりあえず私の勤務する病院の現状を挙げてみます。

 

1.物資の不足

・マスクが1枚もないのでスタッフは各々マスクを調達して使用している

・通常なら感染予防の目的で1日に何回かマスクを新しくするが、1日1枚、同じマスクを使用している

・ゴム手袋やビニールエプロンも不足

(ビニールエプロンがなくなったら45ℓビニール袋に穴を開けて被るそうです)

・アルコール消毒液の不足

・環境整備用のアルコールクロスの不足

 

2.看護師業務の圧迫

・患者への面会が禁止になり、患者の家族が持ってきた洗濯物などを看護師が病院玄関まで取りに行き、家族とやり取りをするという業務が激増している

・アルコールクロスは不足しているが、感染予防のため病院内で患者が触れるところ(手すり、ベッド周囲、トイレ等)を1日に数回消毒する必要がある

・発熱した患者は全てコロナウイルス感染を疑い、個室に移動させて隔離している。他の病気で個室管理が必要な患者が、個室を使えない状況。

 

3.病院の診療機能への圧迫

・不急の入院や手術の延期

検査入院などが延期になると、本来なら早期発見できていた病気の発見、治療が遅れて命に関わることもある。

・手術が中止になる=病院の収入減

病院も会社と同じで、手術や診療をしないと経営が成り立たないのです…

 

 

もう一度言いますが、私の勤務する病院は、コロナウイルスに感染した患者の対応で追われている状況では、まだない。にも関わらず、これだけの影響が出ています。

 

国の偉い人は、このままだと医療崩壊を起こす『恐れがある』と言っている。けど、管理職でも何でもないただの平社員ナースが見ても、やはりすでに医療はひっ迫しているのではないかと思います。

 

病院としてもこのような状況は初めてで、次々と出てくる問題に対して、日々対応に追われています。入院している患者さんも不安です。家族も、面会が出来ないので余計に患者さんのことが心配です。病院にたくさん電話がかかってきます。

 

面会禁止にしているにも関わらず、「5分だけでもいいので直接会わせてください」と言って強引に病室に入ろうとするご家族もいます…

何のために面会禁止にしているか考えてほしいのです。私たちは、患者さんと家族を離れ離れにさせたいわけではありません。意地悪をしているわけでもありません。

病院には肺炎になったらすぐに死に至るような高リスクな患者がたくさんいます。あなたが「自分一人だけ、5分だけなら良いだろう」と病室に入ることにより、直接手を下さずとも何人でも殺すことができるのです。

 

看護師として一番恐れているのは、「自分がもしコロナウイルスに感染したら、患者さんたちまで死の危険に晒してしまう」ということ。毎日本当に気を張って、患者さん、自分、家族の命を守りたいという気持ちで仕事しています。

すでに自分の手にはウイルスが付いているという意識で仕事しているので、一つの作業や処置ごとに手を洗い、アルコールで皮膚がかぶれて手荒れも酷くなってきました。

 

現場はこんなに大変なんだ!!とアピールしたい訳ではないんです。医療の現場の状況を知っていただいて、それで少しでも皆さんの行動が変わることに繋がれば、という気持ちです。医療現場がひっ迫することにより被害を被るのは、医療者だけではなく、他でもない皆さんです。もう「コロナウイルスが流行らなければ、今死ぬことはなかった命」を増やしたくありません。感染予防のため誰にも面会してもらえず、最期を看取られず、亡くなっても顔も見てもらえずに火葬される。大袈裟な話だと思うかもしれませんが、それが今まさに現実で起こっています。自分や家族、友達、大事な人がそうなることを想像してみてください。もし心が痛むなら、自分が取るべき行動は分かるはずです。

何の才能もない

私は何かに長けている人が好きだ。TwitterInstagramでもそのような人を多くフォローしている。

 

デザイナーとして活躍する人。YouTubeを始めて成功している人。好きなフォトグラファー。そのコンテンツを純粋に楽しむ気持ちももちろんあるが、その傍らで「その才能が羨ましい」という感情を持っていることに、最近気がついたのだ。

 

アカペラをしていたからか、音楽関係のフォローも多い。学生時代に自分と同じくアカペラサークルに入っていて、当時からアカペラ界で大活躍していた友人のうち何人かは、輝かしくプロの音楽の世界に飛び込んでいった。

 

プロとしてステージに立たなくとも、今の時代にはYouTubeがある。他に仕事をしながらも、YouTubeで動画を作って公開すればたちまち数万回再生を稼ぐ、ちょっとした有名人である。

 

私は小学校から高校まで合唱部、大学でもアカペラサークルに入っていた。ただ一つ誇りに思えることといえば、高校の合唱部で、全国大会で金賞を取ったことだ。しかしそれは当然、私ひとりの功績ではない。私には音楽の才能はこれっぽっちもない。ただ歌うのが好きなだけだ。

 

私には飛び抜けたものが一つもない。音楽も、勉強も、芸術的センスも、運動能力も。

 

写真、ギター、英語、お金の勉強、など興味のあることは沢山ある。しかしそのどれもが中途半端で、興味のままに始めたは良いものの、何も身になっていない。

 

才能があっていいなあ、と私が羨むその人たちは、大きな努力があってこそ活躍している。当たり前だがそれを忘れがちである。私は他人の才能を羨ましく思うばかりで、何の努力もしていない。才能がないなら努力でカバーするしかないのだ。小さいなりに花を咲かせたいのなら、羨ましいなら、努力してみればいいのだ。少しは必死こいてやってみろよ。

 

 

これはただの自戒。