hydrangea --riri blog--

1992年生まれ。職業は看護師。

祖父母の死

突然だが、皆さんには、人生を変えた「別れ」を経験したことがあるだろうか。大好きだった祖父母の死は、今のわたしに大きな影響を与えている。

 

私は大のおばあちゃん、おじいちゃんっ子だった。小さい頃は一緒に住んでいたし、祖父母が家を建てて別居となってからも、お泊まりに行くのが人生の楽しみだった。

 

祖母は歌が上手で朗らかで、綺麗で、物事をハッキリ言う、カッコいい女性だった。「おばあちゃん」と呼ばれるのを「ばばくさくて嫌」といい、「あーちゃん」と呼んでいた。

 

祖父母はしょっちゅう喧嘩していたが、毎晩缶ビール1本で晩酌していた。喧嘩するほど仲が良い、という言葉は二人のためにある言葉だと幼いながらに思っていた。

 

祖父は糖尿病もあり、何種類もの薬を飲んでいた。祖父が体調を崩して入院するたび、祖母は懸命に看病した。私が高校生のとき、祖母が倒れたのも、祖父が体調を崩した後だったと思う。お見舞いに行き、久しぶりに祖母と会った。明朗快活でお茶目な祖母の姿はそこになく、弱々しい話し振りで、食事もあまり食べられていなかった。祖母の好きな甘納豆を差し入れたが、「美味しい」「もうたくさんだわ」と言って一粒だけしか食べなかった。ショックで泣いてしまった。そして、それが大好きだった祖母との最後の面会となってしまった。

 

あれは土曜だったか日曜だったか、昼頃まで呑気に寝ていた私を、母が血相を変えて起こしにきた。「あーちゃんが亡くなったって!病院行くから準備しな!」祖母が亡くなった。奇しくも妹の誕生日であった。

 

何が起きたのか分からないまま、母の運転で病院に向かった。大部屋にいたはずの祖母は一人きりの部屋に移されており、顔には白い布がかけられていた。あれだけいつも綺麗にしていた祖母は、今や伸びきった白髪頭で、痩せ細り、口も半分開いたまま眠っていた。別人だった。

 

死因は肺炎と聞かされた。祖父の介護で負担がかかっていたところで体調を崩し、免疫力が低下して肺炎になってしまったのだろうと、今では想像できる。しかし当時高校生の私には、突然肺炎になるのかも分からなかったし、入院するまであんなに元気だったのに何故?という気持ち、そして、こんなに大好きな祖母のために、「私は何にも出来なかった」という気持ちでいっぱいだった。

 

祖母の死は、祖父にも大きなショックを与えた。祖父は、隣県の広い一軒家で一人になってしまった。祖父は家の中で転倒して、頭部を数針縫う怪我をしたり、相変わらず何とか生きていた。車の運転ももう辞めていた。祖父宅は、隣県とはいえ私の家から車で30分程度だったので、母と父が交代で1〜2週間に1回、食料品を買って差し入れた。私や妹が一緒に行くと祖父はとても嬉しそうだった。足が悪く、転ぶ危険性が高いため、一人ではお風呂にも入れなくなっていた祖父。私は祖父の体を濡らしたタオルで拭き、垢を落とした。足の爪を切り、髪をドライシャンプーで洗った。祖母には何もしてあげられなかった、という気持ちが強かったため、何かしてあげたいと思った。

 

私は大学生になり、実家を離れて一人暮らしを始めた。80代後半になった祖父のところには、なかなか行けなくなってしまった。かわりに、高校生だった妹が、母や父と一緒に祖父宅を週1回訪れてくれていた。

 

その日も、父と妹が祖父宅へ行く約束をしていた。父と妹が食料品を買い込んで、祖父を訪ねた。インターホンで祖父を呼んでも返答がない。さらに家の鍵が開いている。不審に思った二人は急いで中へ入る。玄関を入ってすぐにある寝室で、祖父は首を吊っていた。

 

若い頃は物理の教師。絵画の才能もあった。のちに電器店を営んだ。器用で物づくりが得意で、家の車庫、庭の池、うさぎ小屋なども自分で作っていた祖父。ロープを天井にうまく吊り下げたようだ。父と妹で祖父の体を下ろした。室内が荒らされた形跡はなく、遺書も見つかった。自殺だ。

 

遺書には、それぞれの家族へ言葉が向けられていた。私には『○○ちゃんへ 成人式を見届けてあげられなくてごめんね。大好きだよ。』という言葉が遺されていた。

 

祖父の遺体とは葬儀屋の一室で対面した。首にはロープの痕が痛々しかったが、安らかな顔をしていたのが、私にとってはせめてもの救いとなった。これで祖父は苦しみから解放されたのだろうか。しばらく祖父に会いにいってあげられていなかった自分を責めた。せめてもっと電話してあげていたら?自分は孫として、祖父の生きる希望にはなれなかったのだろうか。祖母との死別も大きかったと思う。

 

大学で看護学を学び始めた私は、《老年期には4つの喪失体験があるとされている》と学んだばかりだった。心身の健康の喪失、家族や社会とのつながりの喪失、経済的自立の喪失、生きる目的の喪失。祖父の死には、その全てが少なからずあったと思う。一人ではお風呂にも入れない。広い家で一人ぼっち。何のために生きているのか分からない。もし自分がそうなったと考えると、その喪失感と無力感、孤独感ははかり知れない。もっとそばにいてあげたかった。さみしい思いをさせてごめんね。それなのに、最期にちゃんとお手紙も書いてくれて、ありがとう。

 

そんな祖父母の死を経験した私は、今、看護師になり、人の生と死と向き合う仕事をしている。今考えれば、祖父に対しては、介護認定を受けて訪問介護や訪問入浴、デイサービスが利用出来ていたら、何か変わったのかなと思ったりする。人の老年期には、若者の私たちが想像もつかないほどの喪失がある。特に人との繋がりは非常に大切だ。社会から取り残さないこと、孤独にしないこと。まわりが手を差し伸べてあげること。超高齢社会に生きる人間の課題だ。

 

私は自殺を肯定するわけでは、決してない。しかし、「これ以上苦しみたくない」と、自ら人生を終わりにする決断をした祖父のことを、私は孫として受け入れてあげたい。

 

もう、家族の誰をも一人にはしないからね。